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走ることを追悼に 

This post is part of the 2021 Spring Translation Marathon for student translators.

Translated from English by Sarah Ducharme

5つ目のマイルまでその飛べるって感じがしない。その滑らかな、浮き上がるって感じ。自 分の足が清新になって、強くなって、近所の家を通ってほんとうに早く走って感じるようにな る。でもそれは5マイル走らないと感じない。 

 1、2、3、4マイルは沼にはまるように辛い。脛と足首が鉛のように重くて、腓が痛む。 足指のあたりは靴がキツすぎて、足首のあたりはかえってゆったりすぎる。喉をざらざら擦っ てるみたいに息が荒い。 

20世紀初期のイギリス人詩人チャールズ・ハミルトン・ソルレーが “The Song of the Ungirt  Runners”「絞り付けられていない走る者の歌」という、走ることについて書いた詩がある。そ の詩の語り手は「木を剥がす、海の波が空に吠えさせる」接近している嵐の話を描いている。 しかし、その恐ろしい、接近している嵐にも関わらず、身にせまる戦争と壊滅の脅威にも関わ らず、その詩の語り手は何度も何度も述べる、「私たち人間は走るべき者だから走る理由も なく走る好きだから走る、この広く明るい地を渡って走る」ということを。読むと、この詩 に走ることの残酷さと直接向き合わさせられる。走るのは痛みや恐怖に対して幸福と希望なん だ。この詩は、ソルレー氏が第一次世界大戦中20歳で亡くなる少し前に書かれた。 

 私が走ること(体が汗臭くなることも、顔が真っ赤になることも、全部)を好きになったの は、走るのやり続けたから。だから、毎日走っている。たった20分でも、数時間までも、私は 毎日走っている。でも実をいうと、まだほんとうに好きになるようにはなっていない。気分が 落ち込んで家に帰ってしまう日もある。でも一日中ずっとずっと走っていられるような日には 無性に強く感じる。全身にそれを感じることだ。自由を立った一つの感情にするのなら、それ は絶対私にとって「走る」ことなんだ。自分の重い脈拍も路面や山道に叩く足も何か唱えるよ うに感じている。私は自由、自由、自由だと。 

 アフマド・アーベリーが殺害された時にそう思えた。自由について。それまで、走ることな んて全然政治的なことじゃなかったけど、自由は昔からずっとそうあるものだった。アーベリー さんの殺害は毒害だった。それは意味のない暴力、テロ、酷い人種差別の行為だった。自分の 足が「自由」の歌を踏みながら、彼の足がなぜ生存するための慌ている動きになってしまった のか?この無残なことが惨いことだ。このように人の命が失われてるなんて、このように人の 自由が失われてるなんて、惨いことだ。走る者だった、アーベリーさんのことならそれだけは みんなが知っている。彼はきっと好きだから走ったんだ、「この広く明るい地を渡って」。 

 走るのは自分を恐れないようにということを教えてくれた。走るのは自分の体に封じ込めた 自分を解放するように、ただ自分になって自分を忘れるようにさせてくれた。土の上から遠く 遠く飛んでいき風にぎゅっと包まれている鳥のように感じさせられる。それに自分の体はずっ と政治的な物じゃないから飛行中に打ち落とされることなんて怖がることはない。忘れたくな いから、私はアフマド・アーベリーさんについて書きたい。アーベリーさんは走ることなんて そう日常的なこと(自分にとって尊いこと)をやりながら殺害された。私はもう受け身の気持 ちで走りたくない。運動のためにだけでも走りたくない、ただ楽しいから走りたくない。自分 の自由をより良いことに捧げたいんだ。自分の走ることは自分の特別な権利だから、アーベリー さんへの追悼の行為にしなくてはならない。

 レバノン人の詩人、ゼイナ・シャシェム・ベックに書かれた “Dismantling Grief”「哀しみを 解体する」という詩がある。この詩のなかで語り手は嘆きや損失の痛みについて、「あなたは 燐寸のように壊れ、燃える」と語っている。痛みや暴力、戦争、死のトラウマを思い出してか ら、語り手はベランダでコーヒーを啜って詩をこの言葉で終える。「今日は走るのに良い一日。 君の靴はクローゼットにしまってある。持っていけ。」 

 この夏、2ヶ月間、腰の軽度の疲労骨折のため走ることを少し休んだ(もちろん、その疲労 骨折は走りすぎたせいで)。けれども、やっとまた靴を履いて山道をゼーゼー這い上がった。 ちょっと笑わってしまった。私は今、ここで、苦しくても走るのを頑張っている。たった数週 間かかって、もう走ることに謙虚になったんだ。今日はその飛べるって感じがしてこないな、 と思った。走れば走るほど脛がもっともっとキツくなった。丘の上で少し休んで息をついた。 空気はもう夏の朝の乾性乾燥で暑くて、カラッとしていた。一人だった、でも自分の耳にも自 分の胸にも、自分の脈拍がまるで人だかりの前に立っているように感じるほど強かった。 

 私の生死は次の一歩にすがっていなかった。けど、苦しいけど深く息を吸って、走って前へ 進んだ。